
宋元代江西撫州におけるある一族の生存戦略
青木 敦(大阪大学)
はじめに
鄱陽湖を核とし、主に贛江、撫河、信江、修河、饒河の五大河の水系からなる江西は、宋元時代(一〇〜一三世紀)には行政区分としては、江南西路、江西等処行中書省などと称された。江西はこの時期、華北における女真や蒙古の南下、長江下流域での開発進展から、急速に開発が進んだが、家族・宗族といった血縁に基づく集団に着目したときにも、二つの方面で際立った特色を見せる。一つは族結合の要となる族譜の譜序が、この江西でもっとも多く残されていること、もう一つは、大家族の一形態として記される義門が、江西においてもっとも目立つということである。前者に関しては、森田憲司氏が各路に関して宋元の族譜の譜序を調べられた際、表1に示されるように、江西のものが突出して多いことを示された[1]。氏も指摘するように、崇仁の呉澄(一二四九〜一三三三)と臨川の虞集(一二七二〜一三四八)という、同じく江西撫州の二人の名儒の手になる譜序が多く残されていることもあるが、それを差し引いてもこの突出は変わらないという。清代には、江西の宗族の特徴として、族産が薄かったにも係わらず、宗譜編纂が盛んであったという点も指摘されている[2]。また後者の義門に関しても、著名な江州義門陳氏をはじめ[3]、江西には他所に比して断然多くの義門が知られている[4]。なぜ江西において、宗族、義門といった集合的な血縁組織の発達が目立ったのか。その背景を明らかにするためには、経済特に人口動態、経営や土地所有と家族制度、王朝の開発政策など、総合的な視点が必要になるが、本稿では、宗族組織の持つ社会経済的な機能の一端を明らかにすることを目的として、江西の一事例を取り上げたい。具体的に具体的に
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表1. 宋元時代における譜序の地域分布 (森田1978)
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は、上記の呉澄と虞集の著述によって分厚い記録が残されている撫州の中の、宜黄(および崇仁)楽氏という一族である。楽氏は、『太平寰宇記』の編者、北宋初期の楽史(九三〇〜一〇〇七)によって史上に名を見せる撫州の著名な一族であるが、宗族の維持発展という観点からすれば、宋代においては決して成功したとは言い難い。宋初の楽史以降四代、一一世紀の初めまで、相継いで進士を輩出したが、その後いったん歴史の舞台から姿を消し、一三世紀に再び様々な史料に登場するようになってからは、戸絶による資産没官や、限田法による官戸認定取り消しの危機、史料を残した士大夫たちのどことない冷たい視線などにさらされる。この一一〜一三世紀の不明期間を経た後の楽氏は、族産設置、族譜編集、血縁組織の維持(戸絶回避)など、宗族活動に明らかに不熱心であり、同時期より活発な宗族活動が看取される蘇州范氏や、吉州欧陽氏といった名族とは対照的である。そこで本稿では、この楽氏の事例を追うことによって、宗族の組織化を怠った場合に蒙る様々な不利益を検討し、そこから逆に、宗族の確立という戦略が社会経済的に持っていたメリットが如何なるものであるのかを、考察したい。
なお、本稿でも見るように、楽氏は宜黄県、崇仁県など撫州中西南部において、明代以降も一定の地位を保っていたようであり、決して生存に全面的に失敗したわけではない。現在においても江西省の崇仁県には、同省金谿県などと並んで楽姓の人々が多く暮らしており[5]、そこにこの宋元の宜黄楽氏の末裔も含まれるとすれば、むしろ繁栄著しいという見方もできる。つまり楽氏は、宗族結合の強化とは別の生存戦略を選択したのであって、科挙を目指し、史料を残したエリート士大夫たちとは異なった形で、集団を維持していたに過ぎない。
第一節 宋元代撫州の経済景況と名族
(一)撫州概観
撫州は、長江中流諸地域の中にあっては比較的早く開発が進んだ。その後嶺南への大動脈となる贛水と平行して流れる汝水により、長江・鄱陽湖からのアクセスが良く、特に臨川は三国呉太平二(二五七)年、その後も江西を意味する「預章」郡の東部を分けて臨川郡が立てられ[6]、江西東部の中心となった。 五代から宋代には、長江下流域の開発が完了に近づくにつれ[7]、江西が、両浙、福建、湖南などとともに[8]、開発の最前線となった。江西についてはこの人口増のみならず、法文化、非漢族との緊密な関係[9]、政治上の特殊な地位もあげられよう。
特にこの政治上の位置について言えば、北宋中期ことに哲宗、神宗以降、南人が多く宰相となった。さらに南宋になると、特に両浙・江東西・福建出身者が多く政権を握っていることからも、宋の政治体制全体において、両浙・江東西・福建の重要性は小さくなかった[10]。
こうした開発前線の江西のなかも、撫州は、太平興国における後述の楽史の科挙合格を皮切りとして、科挙官僚を急激に多く輩出するようになった。特に臨川は真宗、仁宗、神宗期からの撫州出身宰相としては、陳彭年、晏殊、王安石などが出ている。また福建建陽の学者たちから「江西人」と呼ばれた江西の思想家の中心人物陸九淵も、撫州金谿人である。こうした撫州の地位は、江西の中でも吉州、袁州、贛州などとは微妙に異なる。これら諸州が例えば裁判における健訟・訟学の深刻さに象徴されるように、まさに王朝政治のフロンティアであったのとは異なり、撫州は王朝政治にコミットしようとする士人たちに対して、ある種の吸引力を持っていたように思われる[11]。だが、撫州の中でも、開発・挙業に少なからぬ差はある。現在の九江付近から 南に広がる鄱陽湖の南端から、直線距離で五〇キロもない撫河沿いの臨川と、更に支流を三〇〜四〇キロ遡った宜黄や崇仁では、開発の進度に差があることは間違いなく、戸口数、科挙合格者数においても、臨川は抜出ている[12]。本稿の主な舞台となるのは、この臨川から崇仁にまたがる一帯である。
(二)撫州の名族と楽氏
宋代の撫州については、ロバート・ハイムズ氏が詳細な検討を加えており、エリートファミリーについて多くの具体事例が示されている[13]。特に、隣接する建昌郡の一部を含めた「大撫州」地域の八二家族それぞれについての徹底した史料収集を行っており、北宋から南宋にかけて、様々な新興のエリート家族がこの地域に現れてきたことなどを明らかにされている。ただ氏自身も指摘しているように、それは記録が存在しているということであり、そのエリート家族が実際に繁栄しているか否かは、個別事例に即して考察しなければならない。そこで本節では、撫州に名だたる名族とはどういった家であるのか、登科記、地方志、文集に書かれた撫州の名族に即して輪郭を描きつつ、その中での楽氏の地位について指摘したい。
さて、撫州の名族として、如上のハイムズは八二家族を挙げているが、例えば弘治『撫州府志』〓の宋元の「名宦」を見ると、晏殊を筆頭に王安石、王安国、王安礼、曽鞏、曽肇、晏敦復、李浩、何異、羅点と続き、元代にはひとり、虞集が載せられている。虞集を除き、いずれも宋朝の大臣として著名な人々である。これは、実際に『宋史』などで確認できる撫州出身の宰執たちと、そうかわらない[14]。明一統志で墓が記されているのは、羅隱、楽史、呉澄、虞集の四者だけである[15]。南宋周必大の「撫州登科題序」には、
『臨川図志』には「題名記」一巻が載せられており、太平興国五年の楽史より淳熈七年に至るまでの姓名が記されている。……二百年の間、もっとも名声が高いのは晏殊、王安石、曽鞏であり、楽氏・曽氏・王氏は父子兄弟相次いで科挙に合格し、謝逸やその弟薖といった名士は曾孫に至るまで黄甲に預かり、云々、
以下、汪革、羅点などへの言及がある[16]。周必大の見方では、撫州において傑出した大臣とは晏殊、王安石、曽鞏であり、代々の科挙合格では晏氏ではなく楽氏が入る。また、ここに名士と挙げられ、江西詩派の詩人として知られるその謝逸自身、撫州には「晏元獻・王文公が出ており、人々は讀書を楽しみ文詞を好む」と晏殊、王安石を代表として挙げる[17]。このように、南宋周必大の晏、王、曽氏を撫州出身者の出世頭筆頭とする見方は最大公約数的と言えるが、北宋初期に相次いで擢科されたにもかかわらず、その後大臣を出さなかった楽氏に関しては、実は扱いが微妙なのである。言うまでもなく、学者によって、個々の名族に対する見方は異なる。事実として晏、王、曽氏らが北宋を代表する撫州出身大臣であり、また楽氏が挙業に成功していたことも共通認識だが、その後振るわなかった楽氏に対する評価には、人により差異が生ずる。これを、元に仕えともに撫州人で親交のあった、呉澄と虞集の記述を通して考察したい。
まず、時代は前後するが、楽氏に対して厳しい記述を残している、虞集から見てみたい。『元史』一八一に伝の立つ虞集は、南宋初期の名臣、四川隆州の虞允文の五世の孫であったが、「宋が滅亡すると、臨川崇仁に僑居し、呉澄と交友した。呉澄はその文を清にして醇とたたえた」(同伝)と、元の世になって以降、撫州に移ってきた。そしてその地の多くの宗族の族譜に序などを書いているが、それらは『道園学古録』、『道園遺稿』に主に見える。また若干、『道園学古録』などに見られないものが『国朝文類』に見出されることがある[18]。そこには、修譜への評価が見られるが、逆に熱心な修譜を怠った楽氏への否定的な姿勢も見えるところから、以下、少し彼が撫州宗族の修譜に如何なる考えを持っていたかを、見てみたい。
虞集が晏殊の晏氏の族譜に寄せた序において、撫州以外の者を含め、宋代の若干の名族の修譜に関するコメントをしている[19]。しっかりとした族譜を編纂しようとする晏氏を褒める文脈において、他と比較することになるので、おのずと評価は辛口となるが、まず、北宋の呂公著・韓g・富弼・司馬光・桐木韓家(韓緯を筆頭とする韓億一家の門)は、南渡以後は記録がほとんどないという。曽氏の子孫は泉南(福建方面)に渡った、(虞集と親しい)甫田の陳旅も北宋に仕官した先祖まではたどれない、楽史の子孫は多いが、族譜は見たことがない、王安石一族は金陵に移ってしまった、(神宗期以降活躍した)王珪の子孫は撫州に任官したが、いまひとつさえない、桐木韓家の譜を見てはみたが、臨川に住む子孫は韓元吉を自らの祖としているようだ、と各族について述べる。結論的には、古い家柄の子孫も、数世代後の盛衰は分からないということであるが、この中でただひとり、臨川出身であり、現在なお臨川に子孫が多い楽氏については、「臨川郡の大族、楽侍郎史の後人、尚お多きも、而して未だ嘗て其の譜を見ず」、と族譜すら見たことがないと言う。この点には注目しておきたい。また修譜行為について、金谿県に墨荘劉氏[20]という名家の族譜に寄せた跋文で、虞集は、
宋代の臨川の世家といえば、楽史、そして晏殊・王安石の二丞相の家に及ぶものはなく、最も地位が高い。南渡の後、李浩、陸九淵、そして羅点、李劉といった家は皆名族であり、道徳・学問・文学・政治に卓越している。他の郎官や卿監以下に至っては更に多いが、元朝に服属してからはや七〇年、かつての名族も、或は栄え、或は衰え、また族譜も或はあり、或はない[21]。
と、楽氏を初めとする宋の名族のうち、譜を残さず、または衰え去ったものも少なくないことを述べる。そして曽鞏を出した南豊曽氏の子孫、曽衍から族譜の跋文の依頼を受けた虞集は、慎重な編纂態度を表明した曽肇(曽鞏の弟)の北宋元豊七(一〇八四)年の族譜の叙を読み感嘆し、ひるがえって、みだりに名族賢者を引いて仮託し、誣祖・不孝を行う編纂態度を嘆いて見せた[22]。続いて三〇〇年に至る曽氏の堅実な修譜姿勢に敬意を表しつつ、臨川の現状を語る。
臨川の地方志を見たが、宋初には楽史、晏殊、王安石の家があった。楽氏の子孫は尚お多く、晏氏もまたそうだ。しかし王氏の子孫は金陵に分居してしまい、子孫は少なくなってしまった。南城も南豊も独立して州になり、金谿に住む者〔曽氏〕は、また臨川の大族となり、盛んになったのである。
こうして見ると、虞集は、曽氏、晏氏の修譜の実績を評価する一方、譜を残していない楽氏などへの評価は低い。臨川の名士として挙げられる楽史、晏殊、王安石、李浩、陸九淵、羅点、李劉のうち、大思想家である陸九淵を除くと、楽史、李劉が、宰執クラスには至っていない。李劉については南宋おそく、子孫が元に至ってからも活躍し、虞集も「李梅亭續類藁序」(『道園学古録』三三)を表すなど親交があったようである。総じて虞集は、元豊より修譜を怠らなかった曾氏などを高く評価する一方、族譜が目に触れなかった楽氏や、元代にはあまり振るわず、僧などを出していた晏氏には、冷淡である。
一方、ともに元代を代表する大儒、臨川呉澄は、虞集とは異なり、既に七世の先祖の頃に洪州豊城県から崇仁県に移ってきた[23]。『三礼考註』(六四)、『礼記纂言』(三六)、『春秋纂言』(一二)、『呉草廬先生文選』(六)『道徳真経註』(四)をはじめ(カッコ内は巻数)、礼、易、経から道家に至る相当量の注釈書等を残しており、現存する著作の量は、戴表元や黄溍はもちろん、元代では呉澄と双璧をなすといわれる許衡に勝るとも劣らない。その文集『臨川呉文正公集』(以下『呉文正集』)四九巻の巻一八には[24]、多くの族譜の序が採録されており、特に撫州の宗族のものとして、楽安の・・龔・劉、金谿のケ・呉、崇仁の曽・呉、宜黄の呉・曹諸氏のもが見える。ところで、呉澄は、
唐代、臨川郡を改めて撫州としたが、その疆域は広く、洪・吉・贛州に次ぎ、文物の声明は江西第一である。宋三百年間、栄えた儒臣としては、楽・曽・王・蔡・晏の五姓が首であり、官位を極めたものとしては王・曽・晏がトップであり、楽・蔡が之れに次ぐ。科挙合格で言えば曽・蔡・晏がトップで、王・楽が之れに次ぐ[25]
と言う。楽とは楽氏、曽は曽鞏を出した南豊羅山曽氏、王は王安石の臨川王氏、蔡は吏部員外郎蔡居厚の蔡氏[26]、晏は晏殊の臨川晏氏を指す。つまり、これらの諸名族の中で、族譜への序文を呉澄が著しているのは、羅山曽氏のみであり[27]、他はない。既に述べたように、蔡氏や晏氏はこの当時既に栄えておらず、また王氏は他へ移った。
ところが、呉澄の場合は、楽氏に全く冷淡であった虞集とは異なり、多少楽氏関係の記事が見られる。次に述べるように楽史の末裔楽晟や楽淵、弟子楽順をはじめ、寿、諒齊、徳順など宜黄楽氏の名を伝え、特に楽順は呉澄の弟子であった[28]。しかも虞集が「後人尚お多きも、而して未だ嘗て其の譜を見ず」と述べているにもかかわらず、呉澄の文集には楽氏族譜の跋文が見られるのである。咸淳末に楽史一八世孫楽淵が、呉澄とともに礼部に薦名されているところから、「撫州登科記は、宋初は楽氏より始まる……〔宋から元へと〕時代は革っても楽氏の子孫の福沢はたえない。盛徳は必ず百世代祀られるというのももっともだ」[29]などと述べられている。つまり淵のころには何らかの修譜を行っていたと見られるが、先の虞集の楽氏の譜を見ずという記述が、虞集が盛んに譜序を著した晩年の一三四〇年代とすれば、呉澄の跋より一五年は後のものであり、楽氏の族譜は、結局完成しなかったか、あるいはこの間に廃れてしまった可能性が高い。また「送楽晟遠遊序」では、呉澄は楽氏を「諸子諸孫、科名は相継ぎ、宋末に及び」「一姓文儒の盛」であると評価しているが[30]、現実には後述のように、確認できる進士は一三世紀中葉の甫、誼二人であり、過大評価である。呉澄がともに薦名されたという楽淵のみならず、呉澄は楽順なるものを弟子としており[31]、呉澄と楽氏との関係は深かったと想像される。
撫州の名家について、呉澄は虞集や後代の『撫州府志』の記述と比較して、李浩の李氏、羅点の羅氏などを加えていない。楽氏は含まれるが、官位、科挙合格では下位に位置づけられており、やはり「宋代撫州の名家」中ではあっても、扱いは低い。楽氏の場合、宋初の四代が非常に華々しく、官位・科挙合格に対する評価は、彼らに負うている。族譜跋文についても、少なくとも採録された姿としてはきわめて簡単である点が目を引く。
このように、虞集と呉澄で楽氏の認識が少しく異なる背景については推測に頼るしかない。例えば、呉澄の弟子、楽順が、一三二〇年代に青田書院において重刻された『陸象山語録』を携えて京師に上ったとの記述もあり[32]、学派的な関係もあったかもしれない。だがやはり、六、七世代に渡ってこの地に居を構え、楽淵ら地元の楽氏との結びつきを保っていた[33]呉澄と、一代でこの地に渡り、地元の名族を相手に族譜の序などを書いていた虞集とでは、おのずと楽氏への距離が異なるのであろう。
第2節 宜黄楽氏の軌跡
撫州の楽氏については、これまで殆ど研究されてきたことがなかった。一九八〇年代の半ばに明版『名公書判清明集』(以下、『清明集』)が齎されてから、これと『黄氏日抄』の一部を用いて、梅原郁氏がこの楽史の末裔について取り上げられた[34]。形勢官戸について『清明集』から新たな知見を示されており、本稿も官戸の実態については梅原論文と見解を同じくするが、楽氏関係については簡略なので、ここで改めてその軌跡を追ってみたい。
(一)宋初
楽史は太平興国五(九八〇)年、撫州崇仁県羅山の南、後の青雲郷[35]から江西で初めて科挙に合格し、「破荒登科之人」[36]と称された。彼の伝は、弘治『撫州府志』二一人物などに詳しく、子に黄裳[37]、黄目[38]・黄中・黄庭がおり[39]、淳化三(九九二)、咸平元(九九八)年に進士、史の孫の代(排行は国字)、曾孫の代まで順調に進士を輩出[40]してゆく。楽史から四代下までの進士輩出は、決して少なくない数である。ところが楽滋の世代以降、南宋中期に至るまで、約二〇〇年、貢挙はおろか、その他いかなる方面においても、後述の陳元晋のわずかな伝聞を除いて、ほとんど活躍の記録がなくなるのである。
(二)南宋中期
南宋中期より元にかけて、再び楽史の末裔は、記録に現れる。しかし、理宗の紹定五(一二三二)年に宜黄から進士及第した楽史一一世の孫、楽甫を除けば、他は惨憺たる状況で、例えば楽家と往来のあった嘉定四(一二一一)年進士、崇仁県陳元晋の「楽大章墓誌銘」には、以下のような事実が記されている。すなわち、大章の曽祖父韶武、祖父倫、父光国はみな仕官せず、四人の息子もみな早死にしてしまった。大章も淳煕一三(一一八六)年より国子学に待補国学弟子員となったが、翌年の科挙に失敗し、ばかばかしくなったのか、即刻勉強を放棄してしまった[41]。以降の楽氏の事跡は、百年後に呉澄が若干好意的な目で書き留めたのを除けば、まことに見苦しいものとなる。ただこの記事で着目すべきことは、「崇寧大観(一一〇二〜一〇)に、陳・楽の二家は蓄財で鳴らしたと長老が言っている」といっている点である。この消息不明の約二〇〇年のあいだ、一二世紀初頭には、崇仁県付近で蓄財に成功し